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    バンド名の由来 [編集]

    ラーズの友人であるサンフランシスコ地区メタル・プロモーターのロン・クインターナが新しいメタル雑誌の名前を、ラテン語で「金属」を意味する『metallica』にしようとした際、ラーズがすぐに別の名前『metal mania』を提案し、『metallica』という名前は自分とジェームズが始めたバンド名にすることを決めた。
    音楽的特徴とその影響力 [編集]

    スラッシュメタルの先駆者としても知られ、1stアルバムではnwobhmの影響を存分に受けたスラッシュメタルであったが、2nd~4thアルバムでは叙情的なフレージングと冷徹なヘヴィリフのコントラストを融合させたヘヴィメタルへと進化させた。
    古典的なヘヴィメタルの様式美とは若干異なり、冷ややかさのある耽美的な美旋律が特徴である。
    5thアルバムでは、スピードよりもグルーヴを重視した作風に変化し、当時のヘヴィメタルに留まらず、後のニューメタルやラウドロック等のロックミュージック・シーンに多大な影響を与えた。
    他アーティストの楽曲のカヴァー・ヴァージョンもレパートリーにしており、シン・リジィ(『ウィスキー・イン・ザ・ジャー』)・バッジー(『ブレッドファン』など)・モーターヘッド(『オーヴァーキル』)の70年代ブリティッシュ・ハードロックや、ダイアモンド・ヘッド(『ヘルプレス』など)をはじめとするnwobhm勢の曲、ハードコア・パンクバンドのアンチ・ノーウェア・リーグの曲(『ソー・ホワット』)も含まれており、ここからメタリカのルーツを知ることができる。
    他ジャンルへの影響 [編集]

    ロックに限らず幅広いジャンルのアーティストによって、楽曲がカヴァーされている事でも知られている。その中でも珍しいものについて、メンバーがburrn!2006年6月号に掲載されたインタビューの中で言及した処によると、ゴスペルシンガーとして知られ、砂に書いたラブレター等のヒット曲を持つ、ハードロックやヘヴィメタルをカヴァーした事で物議を醸したパット・ブーンにカバーされている(アルバム"in a metal mood"収録、邦題は"メタルバカ一代!")。また、ウィーン少年合唱団の少年たちは、メタリカの楽曲『ナッシング・エルス・マターズ』を、ザ・ビートルズ、セリーヌ・ディオン、エンヤ、マドンナ、バックストリート・ボーイズらの楽曲と共に、12曲のポップ・ミュージックの中に選び、アルバム『ゴーズ・ポップ』を収録した。このカヴァー曲について、カーク・ハメットは「かなり壮大な仕上がりだった」と評価した。エニグマを手掛けたプロデューサーであるフランク・ピーターソンのプロジェクト"グレゴリアン"でも、 同曲をグレゴリア聖歌によってカバーしている。また、ブルーグラス(アコースティック楽器による北米大陸の民謡スタイルのカントリー・ミュージック)風にカヴァーされたコンピレーションアルバム『fade to bluegrass』(メタリカの楽曲『fade to black』をもじったもの)までもが存在する。フィンランドの「メタル・チェロ四重奏」のグループアポカリプティカは、メタリカの曲を多数カバーしている。この様に幅広いアーティストによってカヴァーされている事について、メンバーたちは歓迎の意を表している。
    バイオグラフィ [編集]

    1981年10月、ラーズ・ウルリッヒがジェームズ・ヘットフィールドを誘う形でメタリカが結成される。
    1982年、アメリカのインディーズ・ヘヴィメタル・レーベル「メタル・ブレイド・レコーズ」で製作されていたコンピレーションアルバムの第一弾『メタル・マサカー - metal massacre - 』に提供するために「ヒット・ザ・ライツ - hit the lights - 」をレコーディング、その直後にデイヴ・ムステインが加入する。
    6月、『メタル・マサカー1 - metal massacre 1 - 』がリリースされる。
    数ヶ月後、オリジナル7曲入りのデモテープ『ノー・ライフ・ティル・レザー - no life 'till leather - 』を制作する。
    デイヴと他メンバー間の衝突は、ロン・マクガヴニーの脱退を引き起こし、バンドは新たなベーシストを探すこととなる。
    12月、新ベーシストとしてクリフ・バートンが加入。
    1983年2月にサンフランシスコに拠点を移す。
    4月にデイヴ・ムステインが解雇され、エクソダスのギタリストであったカーク・ハメットが加入する。この際、既に日本でデビューしていたloudnessのギター、高崎晃へ加入のオファーがあったことが後に明らかになった。実際はメタリカのメンバーからの誘いではなくメタリカ側のスタッフからのオファーであったとされている。
    7月にインディーズ・レーベルメガフォースより1stアルバム『血染めの鉄槌(キル・エム・オール) - kill 'em all - 』でデビュー。
    1984年初頭、ヴェノムのサポートとしてヨーロッパツアーを行う。
    6月に2ndアルバム『ライド・ザ・ライトニング - ride the lightning - 』発表、年末より大規模な欧米ツアーを敢行。メジャー・レーベルエレクトラとの契約を獲得し、qプライムとマネージメント契約を締結。
    1985年8月、イギリス・ドニントンパークで開催されたモンスターズ・オブ・ロックに出演。
    1986年3月、3rdアルバム『メタル・マスター - master of puppets - 』発表(メジャーデビュー)、ビルボード29位にランクイン。50万枚以上の売り上げを記録し、メタリカ初のゴールド・ディスクを獲得する。
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